これが大好きで、でも地元の実家近辺では殆ど見かけることがなくて、見かけるとそこは暫く自分の中の秘密の場所(※)で、何の変哲も無い場所でも暫くの間は通り掛るたびに注意して眺めていたりした。
一度、何処だったか道順を覚えきれなかったんだけど、珍しく父に車で海辺に連れてって貰った時に、岩場に近い、岩場と草地と砂地が混じったところで、大量に彼らが日向ぼっこしているのを発見し、ここがこの世の天国かと思った事がある。
近づくと逃げるので、3,4 メートル離れた所、気づいた瞬間足を止めて、爪先に重心を置いて体だけ前のめりにしてじっと眺めた。運動神経鈍いので傾き方は大した事は無い筈だけど、気分的にはマイケルジャクソンのアレなみに傾いていた筈。足が動いてなくても体が動けばトカゲは感づく筈なので、体を前にやった時点で足を動かすのと変わらず、今思えば無駄な苦労であり迂闊なんだけど。
国語の教科書だったか、外国の作家の作品で、庭に岩があり、その上に何十匹も虹色トカゲが日向ぼっこに来る家の子供の話で、その子供がトカゲを大層大事に眺めている話をおぼえてる。アメリカ人だったかドイツ人だったか。アメリカでもドイツでも当時の自分にとっては同じ外国で、とりあえず外国に住んでる人が羨ましかった。
あれはなんて言う話だったかな。訳が事務的っぽくて、好きじゃなかった。物凄く客観的な視点を感じてしまって、大人ってのは本当に記憶の中のリクツでしか子供の頃を思い出せないんだなと思った。
訳すと言う事は、子供の感覚を思い出して『これイイ!』と思ったからの筈で、もし、これが文学でなく海外のステイ先で、ママンに聞いた楽しい思い出話であれば、多分、直訳せずに自分なりに起承転結要所を考えて、再構成してお話に仕立てるんじゃなかろうか。確かにお話の上手くない大多数の人が、これをやるとノイズになってしまう訳だけど、文学者と言うのは正にそのスキルが売りではないのかねと思った記憶がある。言葉を今の自分風に言えば、だけど。
学術的に言えばこれはノイズなんだろうけど、お話の中に訳の正確さなんて言う基準を入れる事は、お話を楽しむ場合には逆にノイズだったりするし、何かこう、本当に好きなトカゲの話だからこそ、大人の都合みたいな不純物を感じて嫌だった。
昨日、雨が降り出す予報を見て、顆粒状の除草剤を撒こうと思ったんだけど、ポストの下の湯沸し機の室外機のそばで、一瞬だけ奴の背中がみえて、除草剤を躊躇してしまった日記。
※別に秘密ではないが特別な場所は秘密の場所と言う名前で整理される。考えてみると、秘密や内緒と言うのは単純に価値の基準だった気がする。



